秋葉原無差別殺傷事件の粗相を斬る(2008.06.17)



たまたま、その時、その場所に居合わせた、ただそれだけの理由で、

傷つき、殺されてしまった多くの方たち。

運命という軽い言葉を、この世から葬りたくなるような思いに駆られる。



秋葉原の歩行者天国を止めましょう。

銃刀法の規制を見直しましょう。

そんなことが言われ始めているが、何の慰めにも、解決にもならない。



ネットで危険な書き込みを見つけたら通報しましょう。

これとて、期待するような成果はなかなか上がってこないだろう。



ネット絡みで言うならば、俺は2つの要因で負のドライバーになったと解釈している。

ひとつは、ネットに書き込む自分の言葉が、虚像を明確に作り上げてしまったということ。

もやもやとしていた狂気のイメージ゙が、言霊によって形作られてしまったということである。

俺はこうしたかったんだ、こうしなければならないんだという自己催眠、あるいは妄想。



そしてもうひとつが、孤独の増幅装置としての要因。

誰かに止めて欲しかったという自供はどこまで信憑性のあるものかはわからないが、

書けども、書けども無反応。

やはり俺は世間から見放された、ひとりぽっちの存在なのだという疎外感が増幅されたに違いない。



このように「ネットの書き込み」は、トリガーとして重要な要素であったと俺は理解しているが、

根底に横たわる問題は、やはり「教育」というものに行くつくのではあるまいか。



俺が痛切に感じるのは、特に「勝ち、負け」に関する教育である。

現代ほど「勝ち」の定義に柔軟性のある時代はかつてなかったと俺は思っている。



良い大学を出て、一流会社に就職し、結婚し、家を建て、子供を育て、

退職金をもらったら優雅に暮らす。

確かに、このようなパターンがいわゆる「勝ち」と呼ばれる時代もあった。



勝ちとは何か?そんな哲学的な話を始めると、長くなるので、

ここでは、さらりと「自分らしく生き抜く」とだけ言わせていただくことにしよう。



人の能力、適性はまさに十人十色である。

色んなことを学び、経験しながら、自分の能力、適性に気づいていく。

そして、自分らしく生き抜いた結果として、周囲に幾ばくかの幸福を分け与える。

親や教師はそうやって生きていくための支援を目一杯してあげる。

それが、教え育てる、ということではなかろうか。



学業優秀=頭の良い子、こんなたわけた発想、もういい加減うんざりである。



小学、中学と学業優秀、そんな子が高校で落ちこぼれた。

我が子がわき道にそれそうになった時、無理やり不向きな道に引き戻し、

奈落への扉を開いてしまった親。

「勉強はもう良いから、半年ほど、インドへ行って来い」

例えば、こんな安易な教育でも、人生を変えることはありうることだし、

教育次第で、誰だってエジソンになりうる可能性を秘めているのである。



マナーやモラルの低下がどうだとか、少年法を見直しましょうとか、

これらは、すべからく教育レベルの低下に行き着くものである。

繰り返すが、教育=教科書教育ではなく、生き方の教育である。



可能性の芽を手当たり次第に摘み取ってしまう、

無意味な教育論ばかりが、関心を集める現状が少々心配である。

それ以上に大人の教育から始めなければならないことが厄介である。

油利権に群がるガソリン乞食、子供をペットとしてしか見れないモンスター親。

課題の前に、課題あり、である。



人は産まれた時点で、既に選ばれた存在なのであり、

誰しもが無限の可能性を秘めている。

誰しもが天才と呼ばれる資格を有している。



教育こそが、緊急課題であり、そして最も優れた投資なのである。



ここまで国が壊れてきているのに、道路がどうとか、言ってる場合ではないのである。



合掌

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